大阪公立大学大学院医学研究科 脳神経外科学教室

(旧 大阪市立大学)

対談特集
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西村周郎先生(大阪市立大学名誉教授)と
大畑建治先生の誌上対談

荒木先生の明快な講義にひかれて

大畑:本日は日本の脳神経外科の創生期のお話から医療の現状に対するご意見、さらに教育に悩む若い指導者にも指標をお示しいただければと思います。西村先生について非常に厳格で潔い「侍」という印象をもっているのは私一人ではないと思いますが、まず脳神経外科医を志された経緯からお聞かせください。

西村:私は昭和23年に京都大学を卒業しましたが、まだ脳神経外科の講座はありませんでした。学生時代の荒木千里先生の外科学の講義が非常に単純明快で魅力的だったこと、疾病が目に見える外科がよいと考えていて、卒業後にインターンとして1年間すべての診療科でトレーニングを受けたときも、外科に重点をおきました。当時京都大学の外科は外科学第一講座、第二講座、整形外科学講座で構成された大教室制度で、四十数名がこの大教室に入局し、学期ごとに別の講座に移りトレーニングを受けるシステムで、3名の教授に指導を受けました。脳神経外科は第一講座で行われていました。荒木先生は教授就任早々の昭和16年4月の日本外科学会総会で“脳下垂体およびその付近の外科”という宿題報告をされましたが、私どもが入局した頃には年間に脳腫瘍が50〜70例、頭部外傷が60例、てんかんが60例、不随意運動、パーキンソン病などが10例ほどでした。てんかんでは焦点切除を行っており、術中に皮質脳波をとり、スパイクなど異常脳波が出てくる焦点をとるというものでした。開頭術はすべて局所麻酔で、患者さまの名前を呼び、「大丈夫ですか」という呼びかけに返事があれば手術を進めます。血圧測定係が10分おきに血圧を測りますが、呼吸が止まったときには手術を中止し、人工呼吸をするということもありました。全身麻酔は昭和32(1957)年頃導入され,麻酔学の講座もできました。
 診断では、てんかんの例では主にpneumo-encephalographyでどの部分に萎縮があるかを調べますが、座位で腰椎穿刺を行い、髄液と空気とを置換するやり方で、激しい頭痛と嘔吐が起こるなど、悲惨な検査でした。
 脳腫瘍の例では空気を直接側脳室に注入するpneumoven-triculographyで側脳室や第三脳室の偏位によって局在診断をしていました。脳血管撮影は昭和29(1954)年頃から行われるようになりました。

大畑:局所麻酔でawakeで手術をされていて、われわれが新しいと思っている手術が当時すでにされていたというのは驚きです。

西村:パーキンソン病には淡蒼球を定位脳手術で破壊していました。脳動脈瘤の手術は昭和31(1956)年頃から始まりましたが、当初はあまり成績がよくありませんでした。ベッド数は70〜80床で、半数近くは脳神経外科疾患の患者が占めていましたが、一般外科の症例もあわせて受け持っていました。

大畑:荒木先生のご指導はどのような感じでしたか。

西村:声を大にして怒られるというようなことはありませんでしたが、非常に怖い感じがしました。回診などで一言二言おっしやることが要を得ていて、深い感銘をもって聞きました。それも後に荒木先生の門下に入った理由の一つになったかもしれません。

大畑:研修を終えられてからは。

西村:3年ぐらい臨床をやり旧制の大学院に入学しましたが、そのときに第一講座か第二講座どちらに入るかを決めるわけです。

大畑:大学院ではどのような研究をされたのでしようか。

西村:当時、荒木先生は松果体腫瘍の直達手術をやっておられました。年間5例ぐらいですが、第三脳室に止血用のgelatine sponge (Spongel)が残ってしまうことがあり、これが完全に吸収されるかどうかを調べるということで、犬の第四脳室にgelatine spongeを入れて観察しました。最終的には吸収されますが、瘢痕組織が残り、水頭症が起こります。当時輸入されていなかった米国のGelfoamやデンマークのSpongostanも手に入れ、髄液の中にその三つを漬けて観察しました。Gelfoamが一番早く溶け、次いでSpongostan、Spongelという結果で、なるべく早く溶ける物質を使ったほうが瘢痕組織が小さいという結論になりました。

大畑:当時すでにそういう研究もされていたんですね。