大阪公立大学大学院医学研究科 脳神経外科学教室

(旧 大阪市立大学)

対談特集
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西村周郎先生(大阪市立大学名誉教授)と
大畑建治先生の誌上対談

患者さまを集めるための二つの方法

大畑:北野病院に赴任されたのは昭和35年ですね。

西村:帰国して数ヵ月してから荒木先生に呼ばれ、「来年7月から大阪の北野病院の外科部内で脳外科をやれ」と言われました。脳外科は人手がかかり、大学病院以外ではとてもできないというのが当時の考えでした。私自身もそんなに手術の経験があるわけでもなく、お断りしましたところ、2週間後に呼ばれ、どうしても行けということで、やむなく赴任することになりました。口の悪い先輩からは「あそこは京大で要らなくなった者が行く、いわば姥捨て山だ」と言われましたが、行ってみると、きたないんです(笑)。そして各診療科のアクティビティも低そうでした。

大畑:荒木先生は切り込み隊長として先生を送られたんでしょう。まだ脳神経外科の認知度もそれほど高くないときに病院に行かれて、患者さまを集めるのに苦労されたんじやないですか。

西村:荒木先生は常々、臨床をやるからには患者を集めなければいけないという話をされていて、患者を集めるためには学会で一つのテーマについて連続して発表しなさい。そうしているうちに必ず執筆の依頼が来て、論文が出る。そしたら名前が知れ渡り、患者を紹介してくれるとのことでした。北野病院に赴任する前に一つ執筆依頼がありましたので、それはすぐに出しました。もう一つ、救急車で患者を運んでくれるよう消防署へ頭を下げて頼んで回りました。

大畑:学会で同じテーマを繰り返して発表するというのは大変勉強になります。消防署という現実面をしっかり押さえるということも今も通用する話だと思います。

西村:最初は1人で、その後大学から1人応援が来てくれたんですが、2人で1週間泊まり込みということもありました。昭和37年6月に脳外科が独立することになり、45床になりました。常に満床率は100%でした。モータリゼーションが盛んになってきた頃で、頭部外傷の症例が非常に多く、7年間に205例の急性頭蓋内血腫の手術をしました。当時は診断法も脳血管撮影しかなく、重症例は全部脳血管撮影で血腫の診断をしました。手術室のすぐ側にレントゲン室をつくってもらい、24時間検査ができる体制にしましたが、硬膜外血腫が20%ぐらいの死亡率、硬膜下血腫は70%ぐらいの死亡率でした。脳腫瘍は年間40例、動脈瘤も20例ぐらいはありました。

大畑:外傷性の頸動脈海綿静脈洞瘻の症例もその頃経験されたんでしょうか。

西村:昭和41年だったと思いますが、45歳の男性が外傷2週間後、右側の眼が腫れてきたとのことでした。頸動脈海綿静脈洞瘻で、初めての経験でした。治療法がわからず調べたところ、Cleveland ClinicのHambyという人が1963年に36症例の治療について論文を発表していましたが、その1例ではtrappingと筋肉片による塞栓法を併用しており、これを推奨していました。それを試みたわけです。開頭して、瘻孔よりも末梢で内頸動脈をクリップする。頸部を開け、内頸動脈に入れた筋肉片が血流により運ばれ瘤孔を閉塞する。あとは頸部で内頸動脈も外頸動脈も遮断してしまう方法です。そういう症例が3例あり、初めの症例では手術の映画を撮り、昭和42年、第26回日本脳神経外科学会で発表しました。おそらく、日本で初めて行われたendovascularの手術だろうと思います。3例のうち2例では術後に視力の著明な低下を起こしましたが。眼動脈の灌流圧が低下したためと考えられました。

大畑:ほかになにかエピソードがありますか。

西村:昭和40年には荒木先生が北野病院の院長に就任され、その後もご指導いただきました。外来患者が多くて普通にしていたら夕方までに済みませんので、朝7時半から外来を始めたことがありました(笑)。2週間後に副院長に呼ばれて「勝手なことをしてもらっては困ります」と言われましたが、院長の荒木先生からは一言のおとがめもありませんでした。先生は随分お困りになったことと思います。

大畑:北野病院には昭和35〜43年まで8年間、いらしたわけですね。

西村:そうです。いろいろ無茶なこともやったようです。