大阪公立大学大学院医学研究科 脳神経外科学教室

(旧 大阪市立大学)

対談特集
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西村周郎先生(大阪市立大学名誉教授)と
大畑建治先生の誌上対談

脳外科医を増やすための三つの方法

大畑:いよいよ大阪市立大学の脳神経外科学講座の開設に伴って赴任されることになるわけですが。大学紛争もあり、またご苦労なさったんじやないかと思います。

西村:脳神経外科学講座が開設されたのは昭和43年4月で、全国で16番目、比較的早いほうでした。ところが、開講半年後に大学紛争が起き、実際に機能し出したのは昭和45年頃です。

大畑:その2年間、臨床面はほとんどストップしていたんですね。私が入局したのが昭和55年で、当時すでに先生の名講義にひかれて、その前後は毎年8名から9名が入局していたと記憶しています。学生を教育するにあたって特に心がけられたことは。

西村:荒木先生のように単純明快な講義をすること。学生に理解させなきゃいけないということ。もう一つ、学問上も臨床的にも脳神経外科学を盛んにするためには脳外科医を増やさなければならない、たくさん学生を入局させなきゃいかんと思ったわけです。そのためにneuro-scienceは難しいという感覚をぶち壊し、できるだけ簡略化して単純明快な講義をしました。

大畑:私はあまり勉強しなかったんですが、右が出血したら左に麻卑が起こるとか、脳外科って簡単だなと思いました。みんなだまされて脳外科に入って(笑)、実際に入局してみるととんでもないところで、カルチャーショックを受けました。学生教育で臨床面で取り組まれたことは。

西村:例えば採血をさせたり、患者を受け持たせてプレゼンテーションをやらせたり、レポートを出させたり、少しでも実践的なことをやらせて、興味をもたせるということを心がけました。実際に臨床を始めるとき、いろいろなテクニックを身につけていることが大切ですよね。医師免許をとって患者を受け持つときに採血ができないのでは劣等感をもつかもしれませんから。

大畑:先生の時代は講堂に教室の旗と日章旗を掲げ入局式をしていましたが、いつから始められたんですか。スーツを着て、毛筆で署名をして、今から大変なことが始まるんだと思いました。

西村:昭和45年頃ですね。私はもともと芝居がかったことが好きなんですけど、まじめなことをやるんだぞという気持ちをもたせる必要があると思いました。私が外科学教室に入局したときには入局式があり、大学に入るときには総長の前で署名させられたので、署名もいいなと思って始めたんです。

大畑:人生で今から自分の仕事が始まるわけですから、厳粛な気持ちで受け止めました。すでに教室のシンボルマークもありましたが、これはどういう経緯でつくられたのでしょう。

西村:昭和48年頃、みんな一致団結しようということでつくることになりました。大阪市立大学の理学部の人たちがメタセコイヤが中国の奥地にあるのを見つけました。これは曙杉と訳され、今は日本にも生えていますが、非常に古い植物なんです。高い曙杉よりも高いところにわれわれ脳外科医の技能があるという意味で、上の太いのは手なんです。若芽が出てくるのを上から強大な力で押しつぶしているという意味じゃないんです(笑)。

大阪市立大学脳神経外科学教室のシンボルマーク