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第3章 私たちの健康とバイオフィルム

1. 歯の表面に形成されるバイオフィルム

図3-1a 歯の表面に形成されるバイオフィルム
歯の表面に形成される歯垢は典型的なバイオフィルムの一種で、様々な細菌が生息している。


図3-1b 虫歯を引き起こすバイオフィルム
ミュータンス菌のバイオフィルムが歯を溶かす乳酸を生成して、虫歯を引き起こす。
(写真提供:徳島大学大学院医歯薬学研究部口腔保健支援学分野 尾崎和美先生)
 皆さん、自分の口の中を鏡でじっくり観察したことはありますか?口の中には歯や舌、粘膜、唾液など、色や形、硬さ、性状などが異ったとても複雑な組織から出来ています。また口からは空気や飲み物、食べ物など様々な特徴を持つものが入ってくる入り口でもあります。このようなことから、口の中には実に数百種類の細菌が住んでいることが知られています。顕微鏡でのぞいてみると、丸い粒がいくつも連なったものや、短い棒状のもの、細長い棒状のもの、糸くずのように伸びたもの、蛇のようにクネクネと曲がったものなど、様々な形の菌が見られます。唾液1mlの中には1億から10億個の細菌が含まれています。また、歯垢1gの中には何と1000億個の細菌が含まれていて、これは便1gに含まれる細菌の数とほぼ同じくらいの数になります。歯垢とは歯の表面に形成された細菌の塊であり、典型的なバイオフィルムの一つで、プラークとも呼ばれます。また、この歯垢が石灰化して硬くなったものを歯石と呼びます。歯垢は歯ブラシで取り除くことが出来ますが、歯石になると、歯ブラシでは除去できないため、歯科医院で処置してもらわなければなりません。
 口の中に住んでいる多くの細菌は、人に病気を起こしませんが、一部の細菌は病気を引き起こすこともあり、最も多い病気は、虫歯と歯周病です。どちらも、歯の表面や、歯周ポケットと呼ばれる歯と歯茎の隙間に作られた歯垢が原因となって起こる病気です。虫歯はミュータンス菌と言う強力なネバネバを出す菌が原因となります。このネバネバを使って歯の表面に強固にへばり付き、他の細菌と一緒に強力な巣を作り歯垢を形成します。この歯垢の中の細菌が、乳酸という酸を作ることで歯が溶かされ、虫歯が作られます。歯は一度溶かされてしまうと、自然に治ることがないので、早めに治療することが重要です。
 また、歯周ポケットに作られる歯垢は、歯周病の原因となります。歯周病は、歯を支える組織が破壊され、進行すると歯を支える骨が溶けてしまい、歯が抜け落ちてしまう病気です。歯周病はいくつもの細菌によって複合的に引き起こされる病気ですが、その多くが酸素があると生育出来ない嫌気性菌と呼ばれるものです。これらの細菌は、様々な臭い物質も産生するため、とても臭いことも特徴の一つです。これは口臭の原因にもなるため、できるだけ増えないようにすることが大切です。
 虫歯や歯周病の予防には、歯垢の除去が最も有効な方法です。そのためには毎日の丁寧なブラッシングが重要です。さらにデンタルフロスや歯間ブラシ、うがい薬など様々なオーラルケア製品の使用も有効です。
ところで、最近では、歯周病は心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病、さらには高血圧、高脂血症などのメタボリックシンドローム等、歯とは全く関係のないところで、様々な病気と関連していることも分かってきました。口の中の細菌には、まだまだ不思議なことがたくさんありそうです。

2. 医療機器の表面に形成されるバイオフィルム

図3-2a 抗生物質が効きにくいバイオフィルム
バイオフィルム内の微生物のほとんどは眠った状態で、元気に活動している微生物に効果を発揮する抗生物質はあまり効果を示さない。
 現代の医療では、プラスチック、シリコン、金属など様々な素材でつくられた体内埋め込み型の医療器具が使用されます。代表的なものとして、人工関節や心臓ペースメーカー、血管に挿入するカテーテルなどがあります。これらの医療器具は、患者さんの治療を行うためになくてはならないものですが、体内で医療器具の表面にバイオフィルムが形成されると、“治りづらい感染症”の原因になってしまうことがあります。どうしてバイオフィルムによる感染症は治りづらいのでしょう?菌による感染症を治療するためには、菌を殺す薬や菌の活動を抑える薬が処方されます。このような薬は抗菌薬(または抗生物質)と呼ばれます。ところが、バイオフィルムによる感染症に対しては、抗菌薬による治療が上手くいかない場合が多いのです。その理由は、バイオフィルムのなかの菌の状態と関係しています。バイオフィルムのなかの菌は、そのほとんどが眠った状態です。一般的に抗菌薬は元気に活動している菌に効果を発揮するようにできており、眠った状態の菌に対してはあまり効果を示しません。また、私たちのからだには病原体を攻撃する免疫系と呼ばれるシステムが備わっていますが、バイオフィルムのなかのマトリクスと呼ばれる膜状の成分がバリアとなり、免疫系の作用が妨げられてしまいます。このような理由から、バイオフィルムによる感染症は治療が難しく治りづらいのです。
図3-2b 医療機器の表面に形成されるバイオフィルム
カテーテル表面に形成された黄色ブドウ球菌バイオフィルムの電子顕微鏡像。
(引用:https://phil.cdc.gov/Details.aspx?pid=7488)
 私たちとって身近な医療器具に、コンタクトレンズがあります。コンタクトレンズは正しく使用しないと表面にバイオフィルムが形成され、眼の感染症の原因となってしまいます。原因菌としては緑膿菌や表皮ブドウ球菌などが知られ、角膜に感染が起きてしまうと視力低下や失明の恐れもあるため注意が必要です。そうならないためには、@レンズの着脱前に石けんでよく手指を洗うこと、Aレンズやケースの洗浄は専用の液を用いて正しい方法で行い、清潔に保つこと、B定期的に健診を受け、異常を感じたときは速やかに眼科を受診することが大変重要です。
 バイオフィルムを形成して感染を引き起こす菌の多くは、環境中や私たちのからだの表面など身近なところ存在する菌です。しかし、適切な衛生管理を行うことで感染を予防することができるので、過度に恐れる必要はありません。医療関係者だけでなく、私たちひとりひとりが“見えない菌の存在”を想像し、衛生への意識を持つことが大切です。