結核研究所の歴史

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  結核研究所の前身

 本研究所の前身は、大阪市立刀根山療養所が設立された1917年(大正6年)にさかのぼる。このとき、大阪市は、全国に先駆けて初の公立結核療養所を開設した。当時、結核患者は全国に満ちあふれ、結核は死亡原因の一位であった。本療養所の建設委員を勤めた有馬頼吉初代院長らは結核の治療と平行してその基礎研究を行う研究室を併置することが重要であると強く主張した。そして当時の関一大阪市助役(後に市長)が理解を示して支持したことから、大阪市議会の賛同が得られ、開所と同時に研究室の設置が実現した。さらに、その精神は、刀根山療養所規則第一条に「大阪市立刀根山療養所は、肺結核患者を収容診療し、結核に関する学術的研究をなす所とす。」と条文化された。有馬院長の指導の下、結核免疫原AOの開発をはじめ、多くの業績が発表され、以来、“山の研究”で愛称が持たれた。また、同院長らの奔走により、1923年(大正12年)には、日本結核病学会が創立された。

  大阪市立医科大学附属刀根山結核研究所の設立

 戦時・戦後の混乱期に刀根山療養所は、大阪市から日本医療団を経て、1947年(昭和22年)に国営に移管され、国立療養所刀根山病院となった。当時の研究の空白は深刻なものであったが、”山の精神”である研究に対する熱意は、戦後すぐに研究の再開に導いた。1949年(昭和24年)に、当時の渡辺三郎院長と大阪市立医科大学木下良順初代学長とが話し合い、研究室を共用することになった。翌1950年(昭和25年)に当時の厚生省医務局長と大阪市長との間に

「療養所と市立大学は相互に必要な職員を関与せしめ、施設を開放し、教育研究に積極的に協力する。

との覚書きを交わした。これに基き、1951年(昭和26年)、熊谷謙三郎大阪市立医科大学学長らの尽力で大阪市立医科大学附属刀根山結核研究所が刀根山病院内に設置された。渡辺三郎院長が教授兼所長を、山村雄一医長(後に大阪大学総長)が助教授を兼任し、楠瀬正道助手(後に大阪市立大学教授)、笹川泰治助手(後に立教大学教授)の陣容で始まった。

  大阪市立大学医学部附属刀根山結核研究所の変遷

 結核研究所設立当時、助教授の山村雄一医長が、大阪大学理学部の赤堀四郎教授(後に大阪大学総長)の下に留学した関係で、刀根山病院に赤堀研究室分室もできるなど、病院内には研究室が13あり、充実した設備の下、刀根山病院の医師、薬剤師と一体となって活気あふれる研究が推進された。のちに、松井邦夫、水納谷民太郎、木村徳次、岡田吉美、奥山典生等大学教授が輩出した。
 1955年(昭和30年)、大阪市立医科大学が大阪市立大学に編入されるのに伴い大阪市立大学附属研究所に組織変更された。その後、国中に蔓延していた結核も有効な抗生物質の出現、栄養・衛生状態の向上もあって著しく減少した。また、刀根山病院が、大阪市に復帰する可能性も失われた。この様な状況の下、研究所は、刀根山病院と共同研究を進め、少ない人員ながらも優れた研究成果を発表してきた。1976年(昭和51年)に、本学大学院医学研究科に生化学第3講座を新設し、それを研究所に設置して、楠瀬教授が主宰した。1978年(昭和53年)4月に結核研究所は、医学部附属施設となり、研究テーマも結核から広く生化学に発展させ、多くの大学院生が巣立った。
 一方、本学医学部は1982年(昭和57年)に難治病研究所の設置を提案し、ついで老年医学研究所として刀根山結核研究所を発展させようと試みられ、1991年(平成3年)に老年医学研究所の一部門として免疫研究部門が同研究所内に新たに発足した。翌年には、生化学第三講座が分子制御研究部門として生まれ変わり、市原宏介教授が着任した。同時に老朽化した建物の設備整備も施された。1998年(平成10年)に、医学部の新学舎の竣工に伴い、老年医学研究部門が設置され、分子制御部門、免疫研究部門は新学舎に移設した。
 刀根山結核研究所については種々論じられたが、刀根山病院の小倉剛院長、本学大谷周造医学部長を始め、この研究所からはばたいた矢野郁也教授(現BCG研究所所長)、刀根山病院の前倉亮治医局長(現診療部長)らの尽力で1998年(平成10年)10月に寄付講座免疫工学部門が研究所内に開設され、“山の精神”は引き継がれることになった。おりしも、過去の病気であるかのように思われてきた結核が増加傾向に転じ、1999年(平成11年)6月に厚生省が結核緊急事態を宣言した。結核の基礎研究の重要性は、刀根山病院が設立された1917年当時と不変である。そこで、2001年(平成13年)3月に寄付講座免疫工学部門の閉鎖と同時に4月より結核研究所として再開された。現在、難治性抗酸菌の診断と治療や、感染防御機構の解明に向けた研究を鋭意進めている。

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